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神道は古来から日本人の生活文化に深い関わりのある宗教で、でも宗教なんだろうか…と思っていますが、実際のところはどうなんでしょうか
この本では神道についても少し触れられています
竹田恒泰さん曰く、神道は、万物に目に見えない神が宿ると考え、先祖を大切にして敬えという信仰なのだそうです
縄文時代の原始日本人が持っていたアニミズム的信仰を、大和王朝が大切に守りながら育て、現在に伝えてきたのが神道であり、天皇は全日本人に代わって天照大神を奉り、五穀豊穣・国民の幸せ・世界の平和などをひたすらお祈りする存在だったのだとか…
神道は誰が開いたかもわからず、教祖もいないので、宗教ではないとも言えるし、宗教とは「畏れ多い気持ちをいだくこと」であるから、その意味において日本人ほどしっかりと宗教心を持った集団は他にいないとも言えると竹田さんは述べています
竹田さんは「神道は宗教ではないが宗教でもない」「神道は宗教であるとも言えるが、宗教でもないとも言える」(2010.6.25修正)のだと考えているようです
たしかに日本人は生活の根源に神道的な思想を持っているような気がします
日本人は先祖を大切に祀り、お墓を大切にし、新年になればお宮に行き、七五三や厄払いもし、潜在的に神様を心のよりどころにしていて、そういう姿は宗教を信仰しているというよりも生活の一環として行なっているという感じですよね
私たちがふだん何気なく行なっていることも神道の行事であることも多いでしょうし、あまりに生活の一部となりすぎていて、神道の行事であることすら知らない場合もあると思います
宗教とは、広辞苑によると「神または、なんらかの超越的な絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰、行事。又それらの関連的体系。」とあります
誰が開いたかもわからないし教祖がいないことが問題ではないのなら、神道は宗教だと言ってもいいのかもしれません

神道の歴史を語る上で避けて通れないのが仏教とのお話ですよね…日本は仏教もなじみのある宗教です
神道と仏教は、明治政府が神仏分離令(正式には神仏判然令)を発令するまでは共存する関係であったのだそうです
昔から日本人はとてもおおらかだったので、「インドの神を拝んだらよいことがあった」とか「ヒンズーの神様を拝んだらよく効いた」という話を聞くと「だったら拝んでみよう」となって受け入れてしまう姿勢があったのだと竹田さんは述べています
また、なじみの深い七福神は、純粋な日本の神様は恵比寿さまだけで、後は全員ヒンズー・仏教・道教など外国の神様なんだそうです…これにはびっくりです
もともと日本人は外からいろいろなものを積極的に受け入れる習性があって、これは昔から日本にいらした神様、こちらはインドから来た神様というように同じように接していたようで、そんな背景もあって日本の歴史の中でずっと長いあいだ仏教と神道は共存していたのだと竹田さんは語っていました
なるほど…と思いつつもなんだか腑に落ちなかったりします
たしかに日本人というのは外からやってくるものを受け入れる性質を持っていると思います
それが「おおらかである」からなのかはわかりませんが、それがときとして「影響されやすい」「自分がない」「すぐに他人の意見に左右される」性質にも思えてしまいます
古代の日本の宗教…いわゆるアミニズムでは、万物に神が宿るものだという考え方ですよね
山の神様、川の神様、海の神様といった具合です
その感覚を日本人はずっと持ってきたのでしょうか…それで、他の国から来た神様も受け入れて拝んできたのかもしれません
でも、ある程度その宗教にそれなりの基盤ができて、教義や決まりごと、規律などができあがった後に、まったく違う宗教が入ってきたのだとしたら、自分が信仰する宗教を優先して他の宗教を受け入れないっていうこともあってもおかしくないと思います
私の意見としては、日本人には何かを信仰して敬ったり拝んだり、いろいろな場面で宗教的な思いを抱くという宗教の基本姿勢みたいなものを身につけている一方、自分が信仰している宗教へのこだわりがあまりなく、拝めそうなものならなんでも拝んでしまうという性質があるような気がします
これは、日本人が、自分たちが信仰しているもの…自分たちの宗教というものをよく把握していないが故のことなのではないでしょうか
よくわからないまま感覚だけで信仰しているので、他から違う宗教が入ってきても違いがよくわからないし、それでそれも一緒になって拝んでしまう…という感じです
これはいいのか悪いのか…議論になりそうなところですね
竹田さんは「だから、日本人が神社やお寺の両方に詣でて、結婚式は神式で死んだら仏式というのは全然おかしくない」と述べていますが、私はそうは思えません
日本人が死に関わることを仏式で行ない、生に関わることを神式でするのは、いつの時代だったか思い出せないのですが、そのようにするよう政府が政策を取ったからだったような気がします
つまり自然にそう分けたわけではなく、そうしろと言われたからそうするようになったわけですよね
最近では結婚式はキリスト教式でというのもかなり一般的になってきていて、竹田さんの考え方からすればこれも「全然おかしくない」のかもしれませんが、果たしてそうだと言えるんでしょうか
もし日本人がふだんの生活の中で仏教の行事も神道の行事もキリスト教の行事もすべて行なっているのならそれはそれですべて受け入れていると言えると思いますが、実際には信仰ではなく行事だけを行なっているわけで、そこに何の気持ちも入らないのなら、私はどうなのかなあと思ってしまいます
キリスト教式の結婚式もクリスマスも、信仰とはかけ離れた単なるイメージだけで日本人はやっているだけのように私は思えます
初詣やお宮参り、七五三などの神道の行事をやり、お葬式や法事を仏式でやっていても、それは自分たちに関わる行事のみを行なっているだけであって、たとえば神道にも定期的にいろんな儀式があるでしょうし、仏教にもそういった儀式や行事があると思うのですが、そういう直接自分たちの人生には関係のない行事・儀式を行なう人は少ないわけで、その状態ではすべての宗教を受け入れているとは言えないんじゃないでしょうか
こういう点において、日本人の宗教的感覚は疑問視されるのだと思います
しかしながら、竹田さんが言うように、日本人の心の根源には何か目に見えないいろいろなものに感謝をし、拝もうという心があって、それが宗教の基本なわけで、それを持っている日本人は宗教心があると大いに言えるような気がします

それでは、神道と仏教を融合させたものはなんだったのか…それは空海の密教なのだそうです
空海は真言密教の理論を使って、神道と仏教を融合させる新たな理論を構築し、その後天照大神を大日如来に見立てて、天皇を大日如来の生まれ変わりだと考え、神道と仏教を関連づけて合体させ、これが神仏習合と言われるものなのだとか…
三種の神器ですら、仏教的な解釈が施され、この神仏習合状態は先に述べた神仏分離令が出されるまで続いたそうです
明治以降、神道は「国家神道」となり、これは大日本帝国時代(明治維新から第二次世界大戦まで)に 日本政府の政策により成立していた国家宗教のことなのですが、廃仏毀釈と言って仏教寺院・仏像・経巻を破毀し僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃止するという政策まで取られました
第二次世界大戦後、神道指令が出され、政教分離の名のもとに国歌と宗教のあいだを断ち切ることで国家神道は終わり、もとからあった神道の姿に戻ったのだそうです
そんな歴史があったのだとは知りませんでした
歴史の時間に習うことなのでしょうか…私が単に忘れてしまっているだけなのかも知れませんけどね
竹田さんが言うには本質的には仏教と神道はちがうもので、神仏習合自体が無理があったわけで、今の分離した姿が自然なものであり、似たような部分や共通の部分、そして違う部分があることを素直に見ればよいわけで、同一のものとすることは不自然なのだそうです
まあそりゃそうですけど、似たような部分や共通の部分って一体どんなところなんでしょうかね

この日本人のいろんな神様を受け入れて拝んでしまう性質を辛酸なめ子さんは「外国出身の力士がいっぱいいるのを日本国民があたたかく受け入れているみたいなかんじだ」と言い、竹田さんは「日本ほどハリウッドスターをCMに使う国はない」と言ってるんですけど、なんだかなあと私は思ってしまいました
最近では外国人力士ばかりが上に立っていて、これでいいのか…という声もちらほら聞かれていますし、外国人力士ばかりが活躍しているのをあたたかく受け入れるまでの器は日本人にはないと思うし、ハリウッドスターをCMに使うというのも、外国かぶれっぽくて私はあんまり好きになれないんですけどね…
それにそれほどハリウッドスターが使われているようには最近は思わないのですが、どうなんでしょう
それから日本人の宗教的な感覚を語るところで竹田さんが、「いただきます」にはあなたの命をいただきますというあいさつで、そんな表現の言葉は英語にはないと述べていますけど、ないことはないと思うんですよね
もちろん「いただきます」の意味の直訳に当たる言葉はないかもしれませんけど、私は留学していたときに食事の前に「Thank you Lord…」で始まる言葉を何度も聞きましたから、同じような気持ちを述べていると思います
日本の「いただきます」だって、直訳すれば「今から食べるぞー」になってしまうわけで、「いただきます」に秘められた思いを語るにはたくさんの言葉が必要になってきます
強いて言えば、日本人の「いただきます」は万物に対しての感謝の気持ちであり、私が留学中に聞いた食事の前の「Thank you Lord…」で始まる言葉は神に対する感謝の気持ちであり、ここには大きな違いがあるとは思いますけれどね

最後に…竹田さん曰く第一にすべきことは先祖のお墓に行くことで、その上で神社に行くべきなのだそうです
「人は神には直接すがれないが、人は仏にすがれる…そして仏は神にすがれる…だから自分の先祖を大切にすることはとても大切だ…神様が天罰を与えることはあるが、先祖が天罰を与えることはまずない」のだとか…
人は神に直接すがれないんでしょうかね…何かってときには「仏様…!」よりも「神様…!」って感じですけどね
仏は神にすがれる…ってことは、神は仏よりも上の存在なんでしょうか
うーん、私には竹田さんのおっしゃることがよくわかりません
私の理解だと、一般に言う神様というのは偉大な力を持っていて人々の願いを叶えたり罰を与えたり試練を与えたりするような存在で、仏様というのはそういう力は全然なくて静かに見守っているという感じです
先祖はどちらかと言うと「仏様」に近い存在で、私たちを見守っているという感じがします

といったところでしょうか
今日の記事は内容が難しくてうまく語れませんでした
宗教って難しいですね
私は「創価主婦」なんて言われてしまっていますが、自称無宗教でお寺にも神社にも自発的に行くこともないし、キリスト教の諸行事もあんまり積極的にやらないし、ましてや創価学会なんてどんな教えかもわからないので、宗教に対してはほとんど「無」の感覚しかないです
どうやったら私が「創価主婦」ではないことをわかってもらえるんでしょうか…
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皇室について。 | コメント(8) | トラックバック(0)
コメント
難しいですね
おはようございます。
一通り読ませていただきましたが
難しくて一度では理解できませんでした。
また後ほど、じっくり読ませていただきます。

冒頭部分の
>竹田さんは「神道は宗教ではないが宗教でもない」と考えているようです。

「神道は宗教ではあるが宗教でもない」と理解していいですか?
ゆゆさんへ
コメントありがとうございます
間違いを指摘していただきありがとうございます
ご指摘のとおり、「神道は宗教ではあるが宗教でもない」という意味です
でもこれでもちょっとわかりにくいかなあと思ったので、「神道は宗教であるとも言えるが、宗教でもないとも言える」としたほうがいいかもしれません
記事のほうも直しておきます

私もこの宗教のところはとても難しいなと思いました
宗教だと意識せずに生活文化となっているところもあるし、どこで区切りをつけるべきなのか、文化と宗教は違うものなのか…なかなか難しいですね

私が思うに、日本人は宗教心はあるけど、宗教を信仰してはいないような気がします
なかなか難しいですね。
はじめまして。この問題は難しいですね。私は大学のゼミで学んだのですがその一部を紹介しますね。軽く神道と仏教の歴史にふれます。神道は海外のある神様を日本に持ち込んだ説が一番有力です。明治天皇は神道のルーツを調べさせわかったそうです。その他にも自然に対する敬意がありそれらと融合することで、形作られたようです。仏教は仏陀が開祖ですね。こんなことを言われると面白くない人がいると思いますが仏教は日本で最終的には完成したとされるのが一般的な見解だそうです(面白くない人たちから言わせると日本に伝わった仏教は景教の影響を受けているからだそうです)。仏教の教えでは、仏になれたのは仏陀だけだそうです。その仏陀に近づくために修行をするそうですよ。また開祖の仏陀は今では資料が少なすぎて存在したかどうかも危うい事態です。色々な説があり生きていた時代がバラバラです。仏陀はある国の皇族らしいので国際関係上なかなか否定はできないそうですが。
神道と仏教の歴史は簡単に言えばこんな感じです。
ちなみに、創価学会や天理教も仏教の分派ですよ。どちら側も認めないでしょうが。
7日のコメントの追加
前回のコメントでは論点がおかしくなってしまったので追加コメントです。
創価主婦か?と言われたら、仏教を信じていないし、ましては仏教の分派なのに池田某を崇拝してるという、根本の部分から狂った宗教などもっての他と言えばいいのではないかと思います。ここまで、いうのは気が引けるのであれば公明党は何があっても支持できないと言えば相手には伝わるのではないかと思います。
ゆうきさんへ
コメントありがとうございます
返信が遅れてすみません

神道と仏教、どちらも難しそうですね
「嘘も方便」と言いますが、いろいろな作り上げられた逸話も多いでしょうし、何が事実が何が作り話かの区別も難しそうです
仏教だってもとはインドの仏陀が始めたものだけど、日本には天台宗・真言宗・禅宗・浄土宗・日蓮宗などなどとたくさんに分かれているし、それらもまたナントカ派と言った具合にさらに分かれているし、それにプラスして新興宗教と言われる創価学会や天理教なんかもあるし、頭が混乱しそうです
同じルーツを持っていても、それをいろんな人がいろんなふうに解釈するからいろんな宗派が生まれていくのでしょうね
となると、宗教っていうのは人が作り出したものだと言えるし、どれが正統でどれが邪道かなんて語ることもできそうにありません

私としては…仏教であれ神道であれ新興宗教であれ、その人がその宗教を信仰することで前向きになり、世のため人のために生きることができるのなら、何を信仰してもかまわないと思います
ゆうきさんへ
コメントありがとうございます

最近は創価主婦からまたまた変わって雅子さまの母だと言われているみたいです、私
あほらしくってやってられないので全然相手にはしていません

私のことを創価主婦だの雅子さまの母だの言っている人は私がそうでないとわかっていてやっているか、もしくはそう言っているうちに本当にそう思えてきてしまったかのどちらかだと思うんですよね

あまりにも突拍子もないので反論する気にもなれず、でも言われっぱなしで何も言わないと認めていると解釈されるかもしれないとも思い、「はじめにお読みください」にはちょろっと書いてあります

創価学会は胡散臭い宗教集団だとは思いますが、熱心に信仰している人もいるし、政党だってあるし、一体何がそんなに人々を惹きつけるのだろうか…と不思議でなりません
宗教と政治が結びつくのは危険じゃないかしら…?
信者は政策云々抜きで支持しちゃうんでしょうし、まとまった票が悪用されるような気がしてしまいます
No title
ちょっと古い記事ですがコメント失礼します。

・宗教
現代の「宗教」という概念自体が、そもそも「Religion」という輸入品に名前を付けただけのものにすぎず、しかも入ってきたのは結構最近です(江戸時代?)

一神教宗教に教義や戒律があるのは、自然の征服や人民統治のためです。
日本は幸いにも気候風土に恵まれていましたので自然を屈服させる必要はなく、人民の統治にはシャーマニズムが大きな役割を果たし、文明が出来る頃には既に「天皇」という存在がありましたので、そちらの面でも必要はありませんでした。

そういうわけで、「宗教」というものが発達する環境がない、言い換えれば必要がなかったのです。
生きるために必要だったのは五穀豊穣を祈ることと、共同体の維持、つまり自然への畏敬と、祖例(ご先祖様)崇拝で、それが現在の神道にまで脈々と引き継がれています。

ちなみに、日本の仏教自体が「仏教の皮をかぶった神道」でしかありません。
仏教ではお盆に魂が帰って来ませんし、そもそもご先祖様を崇拝することもありません。
本来の仏教は、個人の死を通して仏様の教えに触れるという考え方ですので、後述の「キリスト教的『いただきます』」に近いかもしれません。

明治期の神道の葬儀禁止は、「神職は公務員になるんだから葬儀で銭を稼ぐな」というもので、何らかの思想的背景があるわけではありません。
寺が民衆から焼き討ちにあったのも明治政府が主導したのではなく、江戸幕府の庇護が外れた途端に、たまりにたまった民衆の日頃からの鬱憤が晴らされたというものです。
幕府直轄領などでは、江戸時代のうちにそのような横暴な寺院が幕府により直接排除されたため、現在でも有名な寺院がなく、現在でも葬儀が神道式の家庭が多かったりします。水戸とか岡山とか。
死者ビジネスなど既得権益で銭稼ぎして嫌われるのは、今に始まったことじゃないんです(笑)



・いただきます
キリスト教と大きく異なるのは、感謝の対象が「命」なのか、「神」なのかです。
生きているときは「ox」「cow」だけれど、肉としては「beef」となるような、生き物と肉の名前が違うものは、だいたい「神様が人間のために作った家畜」です。「このような家畜を作ってくれてありがとう」、というのがキリスト教的な「感謝」なので、日本の「いただきます」とはだいぶ異なります。
このような発想ですので、鯨のような、「神が人間に与えた食用家畜以外の生き物」を食すと野蛮だなんだと言われるのです。
また、感謝の念は家畜を作った神に対してであり、生き物に対するものではないので、「もったいない」という発想もありません。
iさんへ
コメントありがとうございます
たいへん興味深く読みました
そういう面もあるのですね
「いただきます」の解釈はほんとそのとおりだと思いました
単に皇室について語るといっても、日本の歴史・文化・ものの考え方捉え方などにも関わってくるので、なかなかたいへんなことなのだなあと感じました

ひとつ疑問なのは、大昔から人々は天皇を神として扱っていたのかどうか、という点です
作物が不作のとき・飢饉のとき・災害が起きたとき…人々は神である天皇にどうにかしてほしいと祈っていたのでしょうか
それとも、日本には神とされるものがたくさんあるから、飢饉や災害の発生に関わる神は天皇ではなかったのでしょうか
いわずもがな人々はそれを理解し、何か困ったことが起きても訴える相手は天皇ではなかった、ということなのでしょうか
昔の人たちってどれだけ天皇のことを知っていたんでしょうね
実際に権力を振るっていたのは徳川家などの武将たちだったし、天皇ってどんな存在だったのか…ちょっと疑問に思いました

> ちょっと古い記事ですがコメント失礼します。
>
> ・宗教
> 現代の「宗教」という概念自体が、そもそも「Religion」という輸入品に名前を付けただけのものにすぎず、しかも入ってきたのは結構最近です(江戸時代?)
>
> 一神教宗教に教義や戒律があるのは、自然の征服や人民統治のためです。
> 日本は幸いにも気候風土に恵まれていましたので自然を屈服させる必要はなく、人民の統治にはシャーマニズムが大きな役割を果たし、文明が出来る頃には既に「天皇」という存在がありましたので、そちらの面でも必要はありませんでした。
>
> そういうわけで、「宗教」というものが発達する環境がない、言い換えれば必要がなかったのです。
> 生きるために必要だったのは五穀豊穣を祈ることと、共同体の維持、つまり自然への畏敬と、祖例(ご先祖様)崇拝で、それが現在の神道にまで脈々と引き継がれています。
>
> ちなみに、日本の仏教自体が「仏教の皮をかぶった神道」でしかありません。
> 仏教ではお盆に魂が帰って来ませんし、そもそもご先祖様を崇拝することもありません。
> 本来の仏教は、個人の死を通して仏様の教えに触れるという考え方ですので、後述の「キリスト教的『いただきます』」に近いかもしれません。
>
> 明治期の神道の葬儀禁止は、「神職は公務員になるんだから葬儀で銭を稼ぐな」というもので、何らかの思想的背景があるわけではありません。
> 寺が民衆から焼き討ちにあったのも明治政府が主導したのではなく、江戸幕府の庇護が外れた途端に、たまりにたまった民衆の日頃からの鬱憤が晴らされたというものです。
> 幕府直轄領などでは、江戸時代のうちにそのような横暴な寺院が幕府により直接排除されたため、現在でも有名な寺院がなく、現在でも葬儀が神道式の家庭が多かったりします。水戸とか岡山とか。
> 死者ビジネスなど既得権益で銭稼ぎして嫌われるのは、今に始まったことじゃないんです(笑)
>
>
>
> ・いただきます
> キリスト教と大きく異なるのは、感謝の対象が「命」なのか、「神」なのかです。
> 生きているときは「ox」「cow」だけれど、肉としては「beef」となるような、生き物と肉の名前が違うものは、だいたい「神様が人間のために作った家畜」です。「このような家畜を作ってくれてありがとう」、というのがキリスト教的な「感謝」なので、日本の「いただきます」とはだいぶ異なります。
> このような発想ですので、鯨のような、「神が人間に与えた食用家畜以外の生き物」を食すと野蛮だなんだと言われるのです。
> また、感謝の念は家畜を作った神に対してであり、生き物に対するものではないので、「もったいない」という発想もありません。

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